第04話   庄内の磯釣りの始まり   平成16年05月28日  

改めて「庄内の遊魚の釣は何時から始まったのだろう」と考えて見ると、他の地方と同様に昔から釣り漁師の釣から始まっている事は確かである。がしかし、文献には無くとも魚を得るための釣は、自然発生的に縄文の昔から全国何処にもあったとは想像が出来る。しかし、大勢が生活の為では無い釣をし、釣にうつつを抜かすようになる遊釣の釣は、戦争が無い太平の世になり庶民の暮らしも比較的安定してきた江戸時代も中期に入ってからである。

庄内の釣を文献上で探すと、温泉と殿様が切っても切れぬ関係にある。江戸時代から既に高名な庄内の温泉は湯野浜温泉、湯田川温泉と温海温泉の三つがある。湯野浜温泉は城下に近い海辺の温泉であったが、鶴岡の直ぐ近くの大山から北西に掛けて幕府の直轄領いわゆる天領であったから、其処へ殿様が湯治に出かけたという記録は無い。次の湯田川温泉は鶴岡の城下町より南東の月山に連なる山の麓の僅か10`圏内にあったので、行こうと思えばいつでも気軽に行くことが可能であったが、海の釣とは無縁の場所にあった。残る温海温泉の場合は海岸線を南下すること鶴岡より約20数`の位置にあり、途中の磯場の奇岩には目を見張る物がある。そしてその中にいくつかの漁村が散在し、釣をするにはもってこいの磯場が数多く存在する。温海温泉に出かけた最初の殿様は四代酒井忠当(ただまさ)公であった。ついで六代酒井忠真(ただざね)公は享和三年(17181023日夫婦同伴で釣をし、5日は浜遊びをしたと云う文献が残っている。この殿様は在任中に六回も湯治に訪れている。ついで延享2年(1745)の7代忠寄(ただより)の時は一月前に湯治の際、遊釣の為に藩から近郷近在の漁村に対し釣竿(70本)、釣針(150本)、テグス(170本)外の釣具、餌の提出を命じている。なんと殿様だけの釣具ではなく家来の分も混じっているのである。その竿を特にお相手竿と云っているのである。

この事実は庄内の殿様は自らも釣を行い、お供の御家来衆(御一行総勢百数十名と云われている)も一緒に海釣を楽しんでいた事が容易に判断出来る。庄内の場合、釣の楽しさがこのようにして徐々に藩士の間に浸透して来たのは、殿様の湯治の際の磯釣が下地となっている。初めの頃はただの雑魚を対称にしていた釣も、時代を経るに従って大きな魚を釣るように、少しずつ変化して行った。殿様の釣も湯治の都度行われ、釣の回数も増えて行ったのである。嘉承3年(185011代忠発(たたあき)公の頃になると村々からの釣竿の提出はなくなり、消耗品の針やテグスのみとなっている。御家来衆たちの大半は各々自慢のマイロッドを数本ずつ持参していたことが文献により分かっている。

殿様の浜遊びに始まり、雑魚の釣そして本格的な磯釣へと、それも武士を中心としての磯釣への釣に変化してきたのが、庄内浜独自の磯釣の歴史であった。その為、釣の用語にも武士らしい用語が残っている。その最たる物が、「勝負」と云う言葉である。「今日の御勝負は如何で御座いましたか?」などと云う挨拶が残る。明治維新を過ぎ大正、昭和に至っても「勝負」という言葉が地元に残っていた。

文化6年(1809)に生まれた陶山運平(藩士陶山儀明の三男の為分家し、手先が器用であったことで竿を持って飯の種にした人物)により、ニガタケを用いた庄内竿の延べ竿が完成された。これ以後、弱いテグスを用いても工夫次第では大物を狙える庄内竿が完成した事で、庄内の磯釣りが盛んになる下地を作った。この事はこれ以後磯釣りが盛んとなった事と大いに関係がある。